ただひたすらにブラフマチャリヤ

心身の健康を増進するため、ひたすら性的禁欲を実践するブログ

65日目

昨日は、予想に反して、衝動にあまり悩まされなかった。肉体的に疲れていたから、衝動のほうにエネルギーが回らなかったかもしれない。どうやら前回のピーク時とは違うパターンのようだ。しかし、久々に夢は性的な色合いを帯び、今朝も衝動の疼きを感じる。


衝動が強くなる時、禁欲をやめたくなる。この辛さから逃げ出したくなる。しかし、65日経過しても、まだ納得のいく成果は得ていない。まだやめるわけにはいかない。


とりあえず、今日一日を乗り切ろう。


             セックスなき人生?(7


人生の四段階


「私たちの欲望や衝動の叫びによって隠されるか、沈黙さられている自らのより深い部分に私たちが注意を払う手助けをするガイドとして、これらの原則をパタンジャリたちが綴ったと私は信じています。その叫びはたいていとても大声であるため、より深いレベルからの合図をかき消します」と彼女は加えて言います。「私たちが欲望によって駆り立てられるより他の選択肢があると理解していないなら、どのように振舞うか私たちに選択の余地はありません。私たちの文化は、私たちを欲望に耽溺させ、それを超える合図を無視するように励ますという、実にいい仕事をしています」。


ほぼ20年の禁欲の成果を得た後、パイパーは、ブラフマチャリヤのより厳格でない現代の再解釈に異議を唱えます。「私は、節制、適度、責任などなどはすべて妥当で、とても重要な霊的修練であると思います」と彼女は言います。「それら全てをブラフマチャリヤの一種として解釈することは混乱を生み出すだけだとも私は思います。ブラフマチャリヤのより穏健な解釈についての話の問題は、伝統的な修道生活的な意味でブラフマチャリヤを修練することを極端で、過激なように思わせることです」。


それでも、パイパーは禁欲は万人向けではないと速やかに認めます。彼女の場合、ブラフマチャリヤは、彼女の霊的修練から自然と展開しました。事実、彼女は一度も正式な誓いを実際立てませんでした。むしろ、彼女が説明するには、ブラフマチャリヤが彼女を選んだのです。「ブラフマチャリヤは自分の特定の状況にとって適切でないと単純明快に自分自身に言えることは、かなりの自己認識と霊的成熟性を示していると私は思います」と彼女は言います。「私はブラフマチャリヤを試みたい気がする誰にでもそれを試みることを勧めるでしょうが、それが本当に困難だと分かる誰にもそれを勧めないでしょう。私が見てきたところでは、ブラフマチャリヤを修練する誓いを立てることは、性的欲望という巨大な津波に、うねりながらきて、海にあなたを放り投げるように誘うことも同然です。」


そして、これがまさに、禁欲に関する問題だと厳格な禁欲への批判者が言うことです。そのような原始の本能を否定することは、単に問題を招き寄せるだけというわけです。カトリック教会での性的不品行と後に続く隠ぺいの最近の暴露は、禁欲のとりでと思われていた場所での最新の最も明らかなセックスの証拠でしかありません。


多くの霊的伝統ーキリスト教からヒンドゥー教のヨーガ、仏教までーは、スキャンダルに引き裂かれています。霊的指導者たちはその信者に禁欲を説いていたのに、しばしば巻き込まれた全ての人に心痛やトラウマを作る方法で、ひそかにセックスを追求しました。フォイヤーシュタインの意見では、「厳しい類のブラフマチャリヤは、ほとんどの人々にとって、私たちの99.9パーセントにとって、全くもって問題外です。それを行いたいと思う人々でさえ、概して行えないと私は思います。性的エネルギーがある方法で外に出ないなら、何か別の方法で外に出て、しばしばネガティブな形で現れます」。

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