ただひたすらにブラフマチャリヤ

心身の健康を増進するため、ひたすら性的禁欲を実践するブログ

62日目

昨日は、心身共にたいして浮き沈みはなかった。ただ、時々、右胸を中心に自然に集中が高まる感覚があった。そんなに気持ちいいものではなく、右胸には痛みが走る。集中のし過ぎで頭が痛くなっているため、これは手放しで喜べず、意図的にそれ以上集中を加えないようにしている。


今朝は衝動が高めだ。60日を超えても衝動との闘いは継続している。今もなお、禁欲を続ける動機について自問自答することがある。なかなか単純ではない。


何とか今日も乗り切ろう。


              セックスなき人生?(4)


現代的解釈


セックスを完全に放棄することに興味のない霊性を志す人々にとって幸運なことに、他のヨーガ教本はその解釈においてもう少し寛大です。それらは既婚のヨーガ修練者に対して特別な例外を認めます。彼らにとって、ブラフマチャリヤは「適切な時の禁欲」と理解されるとフォイヤーシュタインは言います。「言いかえれば、あなたが妻や夫と一緒にいないとき、あなたは体、言葉、心においてブラフマチャリヤを実践します。それはあなたが、性的な冗談のように、何気ない性的接触や性的会話を控えることを意味します。あなたは異性、もしくは、それがあなたの嗜好であるならば同性について、性的に考えるべきではありません。そのように、あなたはその性的関心を伴侶との親密なひと時に限定するのです」。


今日のヨーガ指導者の多くはさらに先に行きー実際、あまりに遠くに(行っている)と言うであろう純粋主義者もいるでしょうがー、伝統的規律の細部にではないにしても、その意図は忠実に守っていると彼らが言う現代的解釈を提供します。今日、ブラフマチャリヤはしばしば適度、一夫一婦主義、節制、自制として解釈されます。ブラフマチャリヤの文字通りの意味は「信心深い行い」であるため、B.K.S.アイアンガーT.K.V.デシカチャルを含む指導者たちは、その規律が必ずしも責任あるセックスを排除しないと言います。しかし、これらの教師たちはまた、ブラフマチャリヤは、ヨーガ・マット上の私たちの生活とその敷物の下の生活の間の関係性を注意深く熟考するよう私たちに求めると言います。


「ブラフマチャリヤが意味することは、性的エネルギーについての深い明確さです」と博士、サンフランシスコの理学療法士、1971年からのヨーガの教師、Living Your Yoga (Rodmell, 2000)の著者、ジュディス・ハンソン・ラサターは言います。「何よりもまず、あなた自身のセクシャリティに気づくこと、すべての瞬間にあなたの感覚と要求について明確であることをそれは意味します。私はヨーガと霊的修練において進歩するために禁欲を守る必要があるとは思いませんが、人が行う性的な選択について人はとても慎重であり、明確でなければないとはっきり思います。あなたがあなたのセクシャリティにおいて完全で健康的でないなら、あなたは完全に健康的な人にはならないでしょう」。


前の時代では、禁欲は親になることを防ぐ唯一確かな方法であり、霊性の道に専念する人々の間で禁欲を必要とする実際的な理由を提供していた、とラサターは説明します。「言いかえれば、パタンジャリの時代に私が性的関係を持っているなら、私は子供を持つことになり、家族を持つことになり、世俗に絡めとられることになります」と彼女は言います。「それは私の霊的修練を変えるでしょう」。


これは、マハトマ・ガンジーが結婚し、妻カストゥルバとの間に四人の子供をもうけた後、最初のブラフマチャリヤの誓いを立てたときに、彼が表した動機そのものです。彼がが公的奉仕により完全に専念したいと思っていた時期に、子どもをもうけ、養うことは彼から貴重なエネルギーを奪ったとガンジーは言いました。しかしながら、長年の禁欲にわたってー自分で認めているように、その修練と悪戦苦闘し、何度か誓いを破りさえしながらー、ガンジーは、ブラフマチャリヤの恩恵が避妊をはるかに上回ることを発見しました。彼の家庭はより「平和で、喜ばしく、幸福」になり、彼は新たな自己制御の手段を発展させ、そして、彼は人道主義的および霊的追及に注ぐための時間とエネルギーのたくわえが増しゆくことに気づきました。「私は誓いが、真の自由への扉を閉ざすどころか、開くことを悟りました」と彼は自叙伝で記しました。「私たちの宗教書の中でブラフマチャリヤの過大な称賛であると以前、私に思えたものは、今では、毎日増し行く明晰さと共に、まったくもって適切で、体験に基づいているように思われます」。

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