ただひたすらにブラフマチャリヤ

心身の健康を増進するため、ひたすら性的禁欲を実践するブログ

60日目

昨日は、心身共になかなか快調だった。腰に痛みはあったが、頭痛が和らぎ、時に、さわやかな心の落ち着き、集中力の高まりが生じた。禁欲を初めて一番調子のよかった日かもしれない。


ただ同時に、衝動の高まりを感じた。心身が活発になると、衝動も活発になるのが困ったところだ。昨晩と今朝も、下腹部に強めの疼きを感じる。まだまだ、油断できない。


今日はとうとう60日目である。自己最高記録を更新したと思う。昨日の調子からは、少し光が見えてきたような気もするが、すぐに消えてしまいそうなかすかな光にすぎない。この光が根を張って大きく育つまで、今しばらく継続しよう。忍耐あるのみ。


             セックスなき人生?(2)


ブラフマチャリヤの変容をもたらすギフトを称賛しているのは、パイパーだけではありません。禁欲はヨーガの伝統において重要な役割を果たします。それどころか、決定的な役割を果たすと言う人もいます。伝統的なヨーガの父、パタンジャリは、ヨーガ・スートラ(2章30詩節)の中で、ブラフマチャリヤを、全ての大志を抱く者が固守すべき五つのヤマ、つまり、倫理的規律の一つにしました。他のヨーガの文献は、禁欲を生命力と力の我々の最深の蓄えを増大させるための最も確かで迅速な方法であると挙げています。そして、パイパーが言及するように、仏教やキリスト教を含む、他の多くの霊的伝統が禁欲をその行動規範に組み込んでいます。マザー・テレサからラーマクリシュナ、マハトマ・ガンジーに至るまでの霊的指導者はみな、少なくともその人生のある期間、禁欲を修練しました。ガンジーは、禁欲のない人生を「味気なく、動物的だ」とみなしさえしました。


しかし、ヨーギーはセックスをすべきでない、もしくは、せめてその性的エネルギーを制御すべきであるという考えは、ヨーガとセックス両方についての現代の認識に異議を唱えるものです。私たちは修行の規律の原型を明文化した古代のヨーギーたちの世界とは完全に異なる世界に住んでいます。そういったヨーギーたちは完全な隠遁生活を送っていました。今日、私たちはおいしい食事と上等なワインの前奏曲として、金曜日のヨーガ教室にせかせか出かけますーそして、ついているならグランド・フィナーレにはセックスが。多くのヨーガが自制を勧める禁欲的な規律に基づいているのに、その修練はセックス・ライフを根絶するためではなく、それを改善する能力のためにしばしば売り込まれています。さらには、ヨーガ教室を最良のナンパ・スポットとみなしているようにさえ思える人もいます。


それでは、どのようにブラフマチャリヤのような由緒ある禁欲的な伝統を我々の現代生活に適合させればいいのでしょうか。ヨーガの修練の中からえり好みして、私たちが好きなものを採用して、ブラフマチャリヤのような厄介ものはヨーガ・マットの下に掃き集めていいのでしょうか。もしくは、古代の法の文字通りの意味でないにしてもブラフマチャリヤの精神を固守しながら、この規律の現代的な再解釈をこしらえることができるのでしょうか。言いかえれば、私たちはセックスもヨーガもしていいのでしょうか。

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